緊急事態!!色々なことを書き散らしているようで、そうではなかったり。不思議でワイセツで知的な刺激を。
by fastska
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earthcream2000@
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(山塚あて)
*すみません、昨年からずっと最近メールが1万通きていて、見切れていません。メール返信必要な場合はblogに書き込んでいただけると幸いです。

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集中効率論を批判する~まわり道、近道
土日、本を執筆しながら、逃げるように本を読む。集中したら効率が上がるというのは嘘であるな。

まず、「愛は脳を活性化する」。なんたるタイトル!と思ったのだけれど、なかなか真面目な面白い。勉強になるなぁ。

そして、「人に言えない仕事はなぜ儲かるのか?」とトニーブザンの「自分のことを天才と思える本」、加えて橘玲の「黄金の羽の拾い方」。

そして、次に田中康夫「ペログリ日記」、やっと文庫になった新堂冬樹の「悪の華」。うおー面白いなぁ。と思っているとこの時間。しっかり原稿も20枚完成。それにしても土日で本代は膨らむ。

あ、この次はヒマだから「泥棒国家の完成」を読まなきゃ。

そろそろ疲れたので寝ます。
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by fastska | 2006-11-26 22:43 | 青春記・旅・思想
孤島に一つだけ持ってゆくもの~既存の問いを否定する
昨日友人からメールがあった。

「孤島に1つだけ持ってゆくとしたら何を持っていく?」

という問いだった。なんでも、(できるだけ面白い答えをくれそうな)友人や知り合いの答えを集めて一挙公開するという。書籍にしてみたい、だとか。

ぼくはすぐさまメールを返信した。
「ひとつ」と読ませたいならば、「一つ」と書きなさい、「1つ」は「いちつ」としか読みません、と。
これはまだまだジャブだった。
ところで、「これは誰かの真似か模倣の企画ですか」とも。

しかし、あまり意地悪をしてもどうしようもない。ぼくは建設的に議論を進めることにした。
ところで、一つとはどの単位のことを言うのだろうか。最初は「論語」と答えようとしたが、それだったら、パソコンを持ってゆけばいい。PDFにすれば、聖書や以前から読破しようと思っていたユリシーズやブルバキの著作も持っていける。

ただ、パソコンは一つ、といえるのか?パソコンだけはダメだ、と言われるかもしれない。電源が合わないかもしれない。じゃぁ、本にしろ、という結論になるかもしれない。じゃぁ、本を接着剤でくっつけて持ってゆこう。それならば、10冊くらいはくっつくかもしれない。

ちょっと待てよ。それならば、発電所を持ってゆけばいい。それなら自家発電ができ、しかも中にはパソコンがあるし、何より冷暖房もある。セキュリティは例外的にテロに備えて防備銃を持っているというし。

いや、それでは仮定が小さすぎる。なんなら大阪梅田を持ってゆこう。あそこは住み慣れていて、飲み屋もたくさんある。それにライブハウスも。あるいは埋め立て工事班一式、というのはどうだろうか。孤島の面積を年々拡大してゆけばいい。あるいは、そんなこと考えずにラスベガスのカジノ一つ、というのは精神的にもよいかもしれない。

ということで考えた末に、「カンボジアのアンコールワット遺跡」と答えた。あそこは三日滞在したことがあるが、全然見切れなかった。物売りの子供たちもかわいらしい。それに、あの中の屋台で買ったビールは美味しかった。

友人からは「あなたにメールしなきゃよかった」と返信があった。

ごめん。
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by fastska | 2006-11-23 22:42 | 青春記・旅・思想
いじめ報道を批判する~なぜ自殺してはいけないのか
いじめ自殺報道がさかんである。連鎖自殺、ではなく連鎖報道とでもいうべきものだろうか。ほとんど場合は「少年少女が自殺する→実はいじめの事実があった→学校は気づいていた→学校の怠慢だ」というまるで神話のストーリーをなぞるかのように進行して行く。

バリエーションとしては、「学校の先生だって疲れている」とか「我が子の異変に気づくためには」という論じ方がなされる。そこにほとんど変化はない。あるいは、子供に対してアドバイスを述べるもの、「命は大切だ」とか「つらかったら学校に行かないでもいいんだよ」というものだ。

なるほど、いじめ自殺の数が減らないは、このように世の中がステレオタイプな言説を流しているだけだ、という皮肉を言うこともできる。最近の子供が弱いからだ、という論もあるが、あの過酷な高度成長期を駆け抜けた「大人たち」の自殺者も急増していることから、この論が正しいとは思えない。

なぜ自殺するかと言うと、そこには金銭価値としての効用があるのである。こどもは、「このまま生き抜くことで得られる効用」<「死んだときの効用」となったら自殺するだろう。いじめる側も「他の面白いことによる効用」<「いじめることで得られる効用(快楽)」のときいじめをするだろう。

まず、いじめられる側の予防としては「死んだときの効用」をできる限り抑える対策が必要だろう。考えられるのは、細木数子から自殺してしまったら「想像を絶する地獄に落ちる」と言ってもらう。教育機関もそう教える。つまり、自殺が哀れむものではなく、最悪最低なものとして定着させる必要がある。これは冗談ではない。

そして、いじめる側の対策としては、密告箱を設置して、陰湿ないじめをした者はその後一切の教育享受資格を失うこととする。つまり、高校や大学への進学資格を失う、あるいは極端なマイナス評価とする。援助交際が流行したときに、前もって「性病やヤリ逃げされる可能性」が分かっていれば大半の女子高生が援助交際をしなかったと言っているのと同じことである。そこまでリスクのある行為は誰もできない。

効果予測として8割のいじめは減る。

やってみよう。
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by fastska | 2006-11-14 06:22 | 青春記・旅・思想
処女作ベスト論を批判する
以前、桑田佳祐せんせいだったかと思うが、「アーティストっていうのは処女作を超すことは非常に難しい」と語っておられたのを聞いて、「おお、そういうものか」と感じたことを思い出す。

他のアーティストもそうかもしれないが、処女作というものはそれまでの歴史が詰まっていることもあったりして、それ以降の作品では醸せ出せないような魅力に満ちていることが多い。

話は変わるが、ぼくは現在「有名メーカー」というところに勤めている。「」つきで書いたのは恥かしいからでもあり、さらに有名という箇所が重要だからだ。

有名メーカーは発展のきっかけとなった処女作を持っている。いや、別に処女作ではなくてもいい。次作だっていい。なんにせよ、飛躍のきっかけとなるような作品を持っているものだ。派手すぎるものや、話題性だけのものだっていい。

だけど、少年が大人になるようにどこだって多少はその派手さを潜めさせ万人にウケるものを生産しだす。だからこそ、その飛躍のきっかけとなったものは思いで深く、メーカーによっては思い出の対象となっているのだろう。

これってどこか前述のアーティストの話にもつながるような気がする。そうやって初期作品を思い出しては望郷のような感情がわいてくる。

しかし、だ。別にぼくは万人向けに商品をつくることが悪いことだとは思わない。むしろ、万人向けのものをひたすら創り(作り)続けることこそが難しいことだと思っている。ただし、評論家のみなさまにはなかなか評価されない。

だが、思えば最初は話題づくりにそのようなトリッキーさに溢れる若々しいものが必要だったとしても、それだけではいけない。やっぱりどこか大人に脱皮する瞬間が必要となってくる。

そして平凡な、でも確実なものが大切になってくる。その大切さは普通に生活していたら気づかないものではあるけれど。

ここで話を脱線させると、そのような平凡なものにこそ各人の魂が篭るのではないかと思う。初速の力も大切だが、慣性の法則に従ってさえ転がり続けることも同じように尊いことだ。そう思えば、あなたが友人と普通に過ごせていることも、恋人と過ごせていることも、なんだかその普通の中に奇跡すら感じてしまう。

普通の転がりの中にこそ、感動があり、ただただ「そこに居続ける」ことに感謝をせねばならないかもしれない。

そして、その奇跡の中に身を置いている事実のみを事実として感謝できるようになることこそ、昔の人の言う「大人になる」の本質ではないかと最近つとに思う。

老けただけですかね。
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by fastska | 2006-11-06 23:06 | 青春記・旅・思想
演劇「奥様は魔女」~演劇衰退論を批判する
なんということだろう。演出家:南野真一郎の演劇「奥様は魔女」を見た後、ぼくはあらためて圧倒される思いだった。鮮烈な色彩に輝く俳優陣と凶暴な叫びに女優の声は無比のセリフ。過激さがとめどもなく増殖し、いたるところに氾濫する。

そう、それは、生涯にわたってインチキ演劇と戦い続け、その苦しい戦いを華麗な芸術に転化しおおせた一つの演出家の、輝かしい勝利の記念碑なのだ。

演劇「奥様は魔女」は、早くから精力的な演劇活動を展開し、とくに00年初頭あたりからは活躍し出す南野を中心として作成されるようになる。そこで重要なのは、彼らの個人史における演劇の必然性と、演劇史における欲求としての必然性が、ぴたりと一致したということだろう。

切り貼り演劇から本物志向への回帰--彼らがそれがたまたま、一様なストーリーで行き着くところまで行ってしまいその混沌から抜け出そうとしていた演劇史の動きと一致したのだ。

無意味な踊りと、不必要な下ネタの中にしっかりと存在する主流派を主張することでもって、自己と世界の消滅に向かう彼らの過激なパフォーマンスは、演劇界の枠を超えて派手な表現を展開しようとする演劇の先駆けとなって、注目されるようになったのである。

死に至る自己破壊を辞さぬ過激さを逆手にとって芸術へと転化し、それによって自己治癒を図る。しかし、その過程は一度かぎりの勝利をもって終わるはずもなく、演劇「奥様は魔女」はたえず振り出しに戻って苦しい戦いを繰り返さなければならなかった(観ていてそう思った。おそらく何度もストーリーを変更したのだろう)。

とくに、90年後半になり、アヴァンギャルド演劇(という名の単に素人)の高揚、演劇全体の観客数衰退の時期。その前後の時期は、彼らにとってにとって大きな危機だったのではないか。それだけに、その直後に起こる圧倒的な爆発は、聞く者を驚嘆させずにおかない。

絢爛豪華な生の饗宴を繰り広げる彼らの演劇--そう、ぎりぎりまで死に接近した演劇「奥様は魔女」は、この芸術によってはじめて生き延びることができたのだ。そして、彼らはなんと見事に生き延びてみせたことだろう! それはもはや芸術による自己治癒といったレヴェルをはるかに超えたものだ。病いを芸術に転化することで、死に打ち克つ。先に述べたとおり、それは一度かぎりの勝利をもって終わるような過程ではない。だが、演劇「奥様は魔女」は演出家の20年以上を超える人生のその戦いに見事に勝ち抜いてきた。もはや死すら恐れぬ境地に到達しつつあるかのようだ。

その意味において、繰り返そう、は演劇「奥様は魔女」という演劇家――病者ではない、紛れもない大芸術家の、輝かしい勝利の記念碑なのである。

http://tsuka.co.jp/kitaku/butai/0611majo/mm/index/index.html
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by fastska | 2006-11-04 19:03 | 映画エイガえいが
だいせんじがけだらなよさ~青春論を否定する
「だいせんじがけだらなよさ」。なんと可憐な響きだろうか。カルメンマキの名曲のフレーズを聴いた12歳の夏だった。

12歳の夏に古臭い曲を聴くことになる運命に感慨深いのであるが、それにしても、「だいせんじがけだらなよさ」とは小さな感性を魅了するには十分だった。

「サヨナラだけが人生だ」とは、井伏鱒二の名言であるがそれを逆さに読んだだけ--、逆さなだけだけれど、なんとも神妙な響き。昨日のことかのように思い出される。言いたいことは直接的にではなく間接的に言うこと、という日本人の心的あり方を極度に削ぎ澄ませたかのような表現形式。逆さから読むだけなのに。

同じときに、こういう曲も鳴っていた。「だますなら 死ぬまでだましてほしかった」。ああ、なんということだろう。このジェラシーと後悔の詩(うた)は。それにひきかえ、「だいせんじがけだらなよさ」にはそのような感情を看て取ることはできない。

同じ感情を起源とするのかもしれないが、どうもぼくにはその差異こそ人生に対する感度の決定的な違いを表しているように思えるのだ。

また、その後に「だいせんじがけだらなよさ」とは寺山修司の言葉であることを知った。ぼくの寺山好きが始まったのはそれからである。

いい加減ぼくの人生を悪するのは止めたらどうか。寺山の詩(うた)は年とともにその影響を減ずるどころか日々その圧倒的感度を増させるばかりである。ぼくは一体いつになったら寺山から卒業証書をもらえるのだろうか。
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by fastska | 2006-11-04 18:50 | 青春記・旅・思想
右も左もガンばかり~日常を批判する
 昨日朝、昔の友人(かなりの年上)から電話がかかってくる。「あのねえ、ぼく、またガンになっちゃって、医者に余命4ヶ月って言われてるんですよ。ちょっと話しときたいことがあるんで、会えませんか」。いつも通り明るく自信に満ちた声には、悲しみや不安のかけらもない。とりあえず、「はい」と返事する。「場所を指定して頂ければお伺いしますよ」。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「戦友」という唱歌を改めて読む。「思えば去年 船出して お国が見えずなった時 玄界灘(げんかいなだ)で手をにぎり 名をなのったが始めにて それより後は一本の 煙草も二人わけてのみ ついた手紙も見せ合うて 身の上ばなしくりかえし 肩を抱いては口癖(くちぐせ)に どうせ命は ないものよ 死んだら骨(こつ)を頼むぞと 言いかわしたる二人仲」。おそらく戦争に出向く若者を最後に救ったのはこのような、自己の共同体の名残であったのだろう。断じて、国家という幻影ではなく、自己の生まれ育った共同体への望郷であったのだろう、と思う。ぼくはイラクに出向いた自衛隊員が皆「国際秩序とイラクの平和のためです」と語る姿を見て、どこか率直な感情と乖離しているのではないかと思ったのである。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 わが心の師は、学生に対してこういった。「君たちが活躍するには次の3つのうち2つが必要だ。一つ目、どこでも通用する英語力。二つ目、周りに囲まれても負けない喧嘩力。三つ目、誰にも負けない異文化への好奇心」ぼくはすぐにニつ目を諦めたため、将来は一つ目と三つ目を習得することに決めた。6年ほど前のことである。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 パゾリーニの「ソドム120日」をもう一回観ているのだけれど、これって逆説的に人間性の回復の物語ではないか、と思う。ウンコを食わさせられる女性。男色の大統領。尿を飲む大司教。変態プレイのみに性的興奮を得る登場人物たち。でもこれって、哀しそうに描かれれば描かれるほど今より幸せだって思う。今ならば、ウンコを食う映像をそこまで哀しそうに描けないだろう。何も不自由なくとも他人のウンコを食える人間が、今は居る。満ち足りた生活の中で好んで変態に身を置く女性たちが居るのだ。それであれば強制されて人間性を剥奪されていった「ソドム~」の登場人物よりもずっと哀しいだろう。
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by fastska | 2006-11-03 07:24 | 青春記・旅・思想
映画「ストロベリーショートケイクス」~生きづらい現代論を批判する
断言しよう、映画「ストロベリーショートケイクス」は今年の映画ベスト3に入るべきものだ。

2006年11月1日現在、ぼくは日記によると78本の映画を今年見ていることになる。その中で映画「ストロベリーショートケイクス」はベスト3に入ることがほぼ確実になった。

魚喃キリコの漫画原作を元にしたものであるが、珍しく漫画原作を超えた映画として賛美されていい。ろくでなしの売春婦、画家、刹那なOL。こういった主人公たちがセックスという軸で淡々と描かれてゆく。

漫画の原作には「どこにでもいる女の子たち」というような解説があるが、それは違う。売春婦や画家や、刹那なOLなどそうたやすくいるわけではない。しかし、それでもなお彼女たちのフィルターを通して描かれる現代は間違いなくぼくたちの目の前にある。

多くの男たちからの裏切り。そして結婚できないという現代問題。

ここにあるのは現代女性の疎外感ではない。疎外感など、どの時代にでもあるものなのだ。この作品が優れているのは、むしろどの時代にでもある疎外感を、現代のみにしか存在しないかのような唯一性をもって描いた点にのみこそある。

この映画では、「あなたとセックス、あなたはわたしのもの、あなたは王子様、この場限りでもいい」という女性の刹那な囁きが、とりとめもなく流れる。

しかし、ここではもはや女性の独白というもの以外が存在してはおらず、従ってそのような漫画の内容がいかなる悲劇性を帯びることもなく、それがこの映画の清々しさに通じている。悲劇を描きながら、清々しいという屈折がある。

このように、魚喃キリコに代表されるPOPな漫画作品は、「悲しいけど、あんまり深い問題じゃないかも」という徹底した弛緩を特徴としている。それはたしかにポストフェミニズムの表現というにふさわしいだろう。

だが、同じ少女漫画家で言えば萩尾望都の作品の悲劇を突き抜けた輝きにあらためて圧倒された者としては、つい疑問を抱かずにはいられない。

もうヘタに女性の悲しみなど描くのは止めて欲しい。30歳女性の大半が「カレシもいない」現実がある今。小説より映画より、もっともっと現実の方が中途半端な悲しみを超越しているではないか。そんな現実があるのに、小説や映画で改めて悲しみの虚構など描かれても、もはや意味がない。虚構の悲しみなど現実からすれば能天気なのである。

芸術がこんなに脳天気であっていいのだろうか。真の悲劇に到達することさえない弛緩が、本当に来るべき女性性の表現と言えるのだろうか。
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by fastska | 2006-11-01 23:49 | 映画エイガえいが