緊急事態!!色々なことを書き散らしているようで、そうではなかったり。不思議でワイセツで知的な刺激を。
by fastska
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(山塚あて)
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カテゴリ:音楽オンガクおんがく( 38 )
さっぱり分からないネット音楽批判
米国でタワーレコードが経営破綻した(ちなみにニュースでは「破たん」と書いてあった。間抜けである)。米連邦破産法第11章というもので、チャプターイレブンと一般的に呼ばれている「絶望状況」である。

またしても、iPodなどのネット配信が破綻の原因であるとか、なんたらの解説が吹き荒れている。たしかに、CD販売が低迷しているのは間違いないし、業界自体が不景気なのも事実だ。

ここで二つ書いておこう。

(1) しかし、どうしても「ネット配信」があたかもリアル店舗をつぶした、という論調にはくみできないのである。もし、それが本当であるならば、タワーレコードが時代の流れに乗れなかった、ということでしかない。

webにアクセスすれば、手軽で便利なネット配信が可能だし。店舗のように並ばされることもない。それに、「取り寄せに3週間かかります」などという時代錯誤のコメントを聞くこともない。

要するに便利で単純なのである、webのほうが。「webでは知らなかった音楽と出会えない」という人もいるのだが、知らなかった音楽とwebで出会ったことがたくさんあるぼくとしては、「じゃぁリアル店舗で聞いて、webで買ったら」と言いたくなる。

(2) webでの音楽が充満することによって、アーティストたちに資金が回らず次の文化を創出できない、などという議論がある。これも疑問である。

考えてみるに、資金が潤沢に必要な音楽は「壮大主義の音楽」であり、次世代の文化を担う音楽は常にカネなど無関係のところから出てきた。

金がないのでアイディアが具現化できない、という人はきっと新の芸術家ではないのだろう。間違いなく、アーティスト自分の作品を直売するルートを作り上げればリアル店舗を通すより儲かる。断言してもいい。

加えて、web通販で資金が回らないのはアーティストではなく、CD屋ではないのか。違いますかね。中間業者がないのであれば、安く売られるのは当然である。

(3) リアル店舗でも、お客が入ってきたのに「いらっしゃいませ」も言えず、店の趣味ばかりを一方的に押し付けるところはどんどん潰れて欲しい。「それがいい」と言う人もいるだろうが、単に商売の基本を忘却しているだけである。

「そこでしか手に入らない」商品を置いているだけでふんぞりかえっていた店は、それより遥かレアな商品がwebで3秒で探せるようになった時代には、ご退場願うしかない。

合掌。
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by fastska | 2006-08-23 20:06 | 音楽オンガクおんがく
今の自分を批判する~あの頃はなぜ
a0022864_22172058.jpgかかってくるはずの幸せな電話。

二日目もとりあえずかかってこなかった。

めったに聴かないCDを取り出してみた。

「ああ、なんてこった」と思った。RCサクセションの「OK」というアルバムだった。中学一年くらいに聞いていたやつだ。

もうほとんどこの時期にやりつくしているということが分かったからだ。

常に新しいものを聴いた方が良いという前提はあるのだが、このように昔耳慣れた曲を聴きなおすということは自分の過去との乖離を知る良い機会になる。

以前気付かなかった音やフレーズ。こういうものが今ではよく分かる。逆に今では若干感動できないフレーズもあるのだろうと思う。

ボーカルは、もちろんあの忌野清志郎である。このか弱さと繊細さ--。

ああ、とまた思った。曲を聴き進めるうちに「この人は自分の若い頃を嫉妬してしまうだろうな」と。

忌野清志郎のような偉大な巨人と比べようもないが、ぼくであってさえ「昔はなんでこんな言葉をつかまえることができたのだろう」と昔の自分を嫉妬することがある。

それにしても--、と思った。「Oh! Baby」から「ドカドカうるさいR&Rバンド」まで続く曲群が、彼らの精神的に落ち込んでいるときに作られたものとは到底信じることができないのだ。いや、むしろ落ち込んだときゆえに作られたと言うべきか。

昔だったらこういうことができた。そう思うのは一種の遊戯であるが、むなしい。過去を振り返るのは、確かに生産的ではない。

しかし、今の自分の状況から昔を羨望のまなざしで見てしまうことは、これからもずっとあるだろう。

昔の自分に嫉妬する。

忌野清志郎はこのアルバムで、今では書けない、美しくも悲しいフレーズを歌っている。

「ぼくを泣かせたいなら 夜更けに悲しい嘘をつけばいい」
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by fastska | 2006-04-26 22:30 | 音楽オンガクおんがく
商業ロックを批判する~変わるものと変わらないもの
a0022864_414923.jpg かかってくるはずの幸せな電話。

まず一日目はかかってこない。

ちょっとだけ眠れない。

最近、古い自分と新しい自分というものについて考えている。

新しい自分、とはポジティブに捉えられることが多い。生まれ変わった自分、とはこれまで以上に良き側面を持ったものとして考えられている。

しかし、それは現状を肯定するためのレトリックであることもある。

RCサクセションの「ベイビー!逃げるんだ。」という曲がある。小学校と中学校のとき聞いていたせいだろうか。ある瞬間に、ぼくにはこの曲のある箇所のフレーズがリフレインされてくる。

「ロックは卒業だとアイツは髪を切るのさ」
「レスポールが重たすぎたんだろ」


レスポール、とはギターのこと。楽器をやっていた人ならわかってもらえるだろうか?楽器を始める中学生は皆、自分がスポットライトを浴びている姿を想像する。それは大学で歓声を浴びる経験を経た後も続くことが多い。

しかし--。その終わりがやってくることがある。就職であったり、あきらめであったり。そんなこんなでバンドマンは「重たすぎた」レスポールを捨て、机の前のパソコンで仕事を始めるようになる。

全ての恋愛が別れを前提に開始しないように、全ての楽器という夢も終わりを前提には開始しえない。

その「終わり」が来る瞬間に、当事者はどのような言い訳で自分の中のおとしまえをつけるのだろうか?

その瞬間その瞬間の決定は最善であると皆信じている。決定が最善でなければ、次の瞬間からの生きる希望などありえないからだ。

そして、一方で「レスポールが重たすぎたんだろ」と笑う少年もいる。

ただ--。その少年も怖いのだと思う。レスポールを脱いだ他人が、ではない。いつ脱ぐことになるかもわからない将来の自分が怖いのだと思う。

他人の像は、明日の自分の像であるかもしれないから。そして、少年は他人を自分に重ねるのではなく、自分を他人に重ねることによってその恐怖から少しでも脱却しようとするのだろう。

「レスポールが重たすぎたんだろ」

昔のぼくと今のぼくを対比して、そう語る「少年」はいるのだろうか?

ちょっと感傷的になってしまった。
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by fastska | 2006-04-24 04:16 | 音楽オンガクおんがく
倖田來未批判を批判する~新しい日本人バンザイ!!
00年から05年にかけて。日本人の変動が起こった。

日本がそれまでクローゼットの奥にずっと隠してきた陰部がついに噴出した。

幼女がレイプされる画像が映しだされ、少年はフェラチオさせられた。小学生がパンツを脱いだかと思えば、女子高生は男性の精液を飲みほし笑顔を見せた。

2001年はどこかの正義軍がアメリカのビルに突っ込み、同じ時期に日本ではいたいけな男子高校生が教師に性器を突っ込まれたことがニュースになった。

イラクでは戦争になり、自衛隊の派遣が国会の一大ニュースであるときに、みんなはラップとジャニーズに夢中だった。人々はいつしか日本総中流が幻想であることに気付き、街をニートが埋め尽くした。

ぼくが大学時代に住んでいたアパートの隣にはカラオケ徹夜で目が赤い奴らが失業保険の列に並んでいた。

そして女性たちはブラジャーとスカートを脱ぎ捨てた。自己表現のために。純粋な愛を歌う者は、美しいという理由だけで、リアルな歌詞に侵食されていった。

無垢な女性がいつしか王子様と出会う物語は駆逐され、若さの肉体美をこれほどかといわんばかりにアピールする「エロかっこいい」女性たちが席巻した。

2005年のレコード大賞が倖田來未の涙で終わったことは象徴的だった。それは勝利の涙だった。それ以外ではなかった。

ぼくらは甘い夢が甘いほど現実ではないと知らされた。

しかし、あの彼女が演じているのは、かつての夢であった日本人の個性的であることの表現の噴出ではなかったか。画一的であることを捨てて、自分だけのリアル(=肉体)をひたすらさらけ出すこと。彼女を「はしたない」と評する人間にこそ、倖田來未的なる真性が潜んでいるのだ。

そして倖田來未ブームの反動として、「肌をさらけ出す」から「厚着」への移行が来るだろう。

誰か、夏が来ようとする今のうちに汗だくの女性へのフェティズムを語れ。
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by fastska | 2006-03-27 23:30 | 音楽オンガクおんがく
みんな英語で大きくなった
a0022864_23435874.jpg U2の「How to Dismantle an Atomic Bomb」を改めて聞く。

 ああ、なんといことだろう。透明感のありすぎるギターでありながら、存在感を示し続け、しかも音はあまりにも凝られている。アイディアは無数に出て、フレーズも洪水のようにあふれる。

 「Vertigo」からはじまるこのアルバムは、最後まで才能の違いを見せつけ、ドラマティックに昇華していく。おそらく、このドラマ性は若手の気鋭MUSEでも適わないレベルなのではないか。

 複雑なメロディーラインは、複雑というだけで終わりはせず、一つの華麗な旋律として聴くものを惹き付けてやまない。

 ふと思った。

 桑田佳祐も英語だったら、U2にでもなっていたのではないか。「英語」だったら、というのはもちろん皮相的なたとえであるが、その英語的なものがあったらU2ではないか。a0022864_23512263.jpg

 桑田佳祐はサザンにおいて「TARAKO」などで、米国市場に殴りこんだことはある--しかし、その英語的なものがあくまで「日本の」英語的なものだったので結果はおもわしくなかった。

 それはなぜだろうか。

 それは日本語は結局演歌にしかならないからだ。構造上、演歌以上でも以下でもないからだ。ぼくは日本語ロックを莫迦にしていないし、むしろ好んでいる。だけれど、日本語で歌うということ自体が演歌であり続ける宿命を持っているのだ。

 演歌とは地方性である。演歌とは「わかっちゃくれねぇ世間への哀歌」である。英語はその「地方」がたまたま世界中に広がっているだけであり、その「わかっちゃくれねぇ」はずの世間が広いだけにすぎない。

 そして、どうしても共通感覚は共通言語の中で起きる。

 ひどい日本語を当てはめた「DISCO-ZONE~恋のマイアヒ~」のヒットも、この文脈で解釈されなければならない。
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by fastska | 2006-02-24 23:59 | 音楽オンガクおんがく
ぼくらのオンガクはどこにいったのだろうか
a0022864_20483934.jpg 「飛ぶ、歌う、ぐちゃぐちゃ」こういう雰囲気ってなんだったんだろうか。

 久々に以前自分がやっていたバンドの音源を聞いた。

 たしか、みんなお金が無い中、数万円ずつ払って録音したやつだ。CDになって色々なところで発売されたりしたけれど、もちろん儲からず、だけど楽しさのみが残った。

 なんて荒いギターの音なんだ!と7年前の自分をふりかえって思う。だけれど、このあまりにオーバードライブの効きすぎた音も7年前でなければ出せなかったのだ。

 出来上がった音に感動し、自分たちの曲であるにも関わらず、繰り返し繰り返し聞いて楽しんだあの頃。みんなで集まって、一つのモノゴトをつくりあげようとしたあの頃。

 様々なことが起こった。

 自分だけでは思いつかなかったフレーズが突然バンド練習中にひらめいたこと。大して変わらない「こだわり」に2時間かけたこと。曲の構成でワイワイやりあったこと。上手くいかずに落ち込んだこと。客からウケすぎて舞い上がったこと。多くの人たちからお叱りを受けたこと。多くの人たちから感動したと言われたこと。ギターソロを考えるのに懲りすぎて丸2日使ったこと。イメージをみんなで曲にしていったこと。緊張して録音のときは皆間違えまくったこと。他のバンドとついつい比べてしまったこと。他のバンドを無視して独自路線をつっぱしりすぎたこと。練習が終わってみんなで色々なことを話したこと。オンガクに関する熱い思いを交換したこと。

 リズムの中で自分たちが一つになっていったこと。

 思い出せばあのころの季節はなんだったんだろう、と思う。人が集まるだけでは、生産性が高まるとは決していえない。ワクワクドキドキが量産される、とも決していえない。

 そこには古臭いコトバでいえば「志」、があった。共通理念と共通目的があった。これらがぼくたちの心をつかみ、通常以上の化学反応を起こさせたのは間違いない。

 そしてメンバーは現在バラバラになって、自分のフィールドで新たな志を持ち「ここではないどこか」へ走ろうとしている。

 しかし、だ。

 もう一度、いや一回だけでもいいから、集まってみたいと思う。そしてもう一度化学反応を起こしたいと思う。そして、あの頃との格差を知って落胆するかもしれない。あるいは、思いを新たにするかもしれない。それを知りたいと思う。

 何のために?もう一度楽しさを復活させるために。代替のきかない友人との触れ合いを楽しむため。

 そして、おそらくあの頃の自分たちに向けて。
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by fastska | 2005-10-28 20:51 | 音楽オンガクおんがく
サザンオールスターズは現代の歌謡曲を超えた
a0022864_2055820.jpg サザンオールスターズの「キラーストリート」を聴いた。デスメタルとイージーリスニングと共に購入したので、全く不可解な組み合わせであった。

 一言でいう。サザンオールスターズは既に現代の歌謡曲を超えた。

 以前、小室哲哉が週間ジャンプ手法を音楽界にもたらした。週間ジャンプ手法とは、飽きたな、と思ったくらいに次の曲がでる、という手法だ。たまに良くない曲が有っても、次週には次の曲が生まれ、音楽界のうねりに乗って瞬く間にトップに踊り出、下降していった。

 比して、奇しくも絶頂期の小室と対談した桑田佳祐は、当時こう語っている。

 「ぼくねぇ、曲あんまりつくんないの。アルバムに何曲いれるってきめたら、その分ピッタリしかつくんない(大意)」

 サザンオールスターズのこのアルバムは7年半ぶりであり、まさに7年半前の自己の歴史に思いを馳せることを意図せず狙っている。

 「夢と魔法の国」ではロックとブルースを。「ロックンロール・スーパーマン」ではT-REXのリフからはじまりストリングスを使ったPOPS。「愛と欲望の日々」では今ごろありえないメロディライン。「ひき潮」では以前までのアルバムと同じく華麗にワザとらしく締める。

 どこを切っても、作り込まれた、極上にうそ臭く、そして完成されすぎた、ベタベタすぎる最高のアルバムだ。

 「世に万葉の花が咲くなり」で見せた、商業主義と音楽マニアにしか分からない隠し味の微妙なブレンド路線が再度戻ってきた。

 かつて、著名な音楽評論家が「桑田佳祐はとっくにピークを過ぎた36歳にあって、なぜにかくほど人を惹きつける曲を創れるのであろうか」と唖然してみせたときから幾星霜。ついに50歳一歩手前になってまでその才能を加速していくばかりである。
 
 「ああ、これこれ。またやっちゃってー」と言わせながら、それでも楽しんでしまうのがPOPSであり歌謡曲であるとしたら、まさにサザンオールスターズはこの定義を超えた。

 自殺しそうな内面を歌うのが歌謡曲としたら、POPSは「まぁそんなこと考えないで音楽があるときくらいは踊ろうよ」というメッセージを歌う。サザンはこの両者でもなく、POPSの中の歌謡曲であり、歌謡曲の中でのPOPSである。

 つまり、自殺しない意識的な歌謡曲なのだ。

 サザンオールスターズはもはやセルフカバーのような曲を量産する、という批判を遠くからあざ笑い「大衆人気」という巨大な武器を持って孤独にそそり立っている。その姿勢は、TVに出ることを全く拒否しなかった初のロックバンド、といわれたデビュー当時から変わることはない。

 日本人はいつの日に桑田佳祐から卒業証書をもらえるのだろうか。いつになったら離れることができるのだろうか。桑田佳祐は離れていくリスナーなど関係なく、確立済みの追い越し車線を駆け抜けていくだけである。

 「離れても元気でいてと 呟いた空の果て 儚きは花火にて燃えて 無常を噛みしめるだけだよ(『涙の海で抱かれたい』)」
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by fastska | 2005-10-28 20:39 | 音楽オンガクおんがく
フジファブリック ~ 古いことが新しい。21世紀型思想の転換へ
a0022864_21515746.jpg 最近、ずっとフジファブリックを聴いている。

 ハモンドオルガンと重なるギター、そしてドラムス、ベース。そして、昔の日本ロックを彷彿させるボーカル。せつない歌詞。

 「君の小さな目から 大粒の涙が こぼれてきたんだ」

 最初、バラッド「茜色の夕日」を聴いたときは、RCサクセションか四人囃子の再来かと思った。どこまでも生にこだわるフェティズムと、青臭く、西洋ロックへの憧れを捨てきれぬフレーズ群、それでいて日本歌謡曲の歴史を踏まえた曲作り。

 これのどこが2000年代のPOPSなのだろうか。

 歴史は繰り返す、とよくいう。しかし、本当はそんなことなくて、たまたまその時代にそういう音楽をやっているバンドが注目されたり注目されなかったりするだけだ。

 時代なんかはどうでもいい。だけれど、ぼくはこの情緒溢れるバンドに、60年代70年代に活躍した偉人バンドたちを重ねて見ざるを得なかった。

 電子音楽とパソコンナイズされたバック音楽が氾濫する今、この静かで、情けない、だけれど力強い彼らは音楽史上に輝く偉人たちの復習項目としてぼくらの前にある。

 だけれど、よく考えれば全て生演奏だけで、この太いロックをやること自体が、時代への反逆といわざるを得ない。どんなに予定調和な曲展開であっても、人間演奏のみで成立しているということ自体が、既にロックになっている。極めて21世紀的思想の転換がここにはある。

 「小さな目から 大粒の涙が こぼれ」るように、ぼくらはフジファブリックから、日本のロックシーンという小場所から脱皮する怪物を見ることになるのだろうか。
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by fastska | 2005-09-25 22:01 | 音楽オンガクおんがく
モーニング娘。は古い? ~ ぼくらはいつでもアイドル ~
a0022864_921770.gif 「ブスな女の子だって夢見れるんだよ」

 この前、モーニング娘。について5人でスノッブなおしゃべり。

 「何でモーニング娘。って成功したのかな?」

 「そりゃ、アレよ。モーニング娘。の魅力でしょ」

 「モーニング娘。って素人参加番組みたいなもんでしょ」

 「モーニング娘。のプロデューサーの能力でしょ」

 「ほら、モーニング娘。って、一般の女の子が『私もなれるかも!』って期待しちゃうんだと思う」

 「だけど、大半のファンは女の子じゃなくて、男でしょ」

 「でも、やっぱり素人でしょ。身近にいそうな女の子がヒーローになってる」

 「距離感が近いってことね」

 「そうそう、スターぽくないっていうか。そこらへんがすごいの」

 「でも、おニャンコもそうじゃない?」

 「あれよりずっと年下だよ」

 ・・・・・侃侃諤諤。

 おそらく同じような議論が、日本中のいたるところで交わされているのではないか。モーニング娘。のヒット要因を探す試み。しかも、それは後付けの分析にしかならないと知りながら、ワイワイと要因を議論したいのだ。

 だけれど、上記のようなヒット要因は本当だろうか

 ぼくはこの前、1985年の雑誌「活人」を読み衝撃を受けた。この雑誌は元々、アイドルをインテリっぽく紹介する雑誌で、現代思想のヒーローと小泉今日子が混在しているようなヘンテコさが売りだった。

 その中の浅田彰氏の連載が目をひいた。

 簡単に要約すると、こういうことだった。

 「アイドルの低年齢化がどんどん進み、いまや中学生が慣れた素振りで画面に映るようになってきた。どんな女の子でも潜在的なアイドルだ。ティーンエイジのくせに老女で、輝きは一瞬で終わっていく。TVには小さな輝きが乱舞し、彼女たちはどこまでも希薄な物語を生きている」

 ぼくはびっくりした。

 ちょうど20年前に書かれた文章を変えるだけで、現在にも通じるじゃないか。むしろ、文章のレトリックからして、現在にはない批評形式によって、今流布している言説よりも的確な気もする。

 誰が、この文章が20年前のアイドル批評だと気づくだろうか。

 モーニング娘。は古いのだ。いや、彼女たちが古いのではない。もうぼくらは古いと気づかないほどに時代時代の流れに翻弄されていたのだ。繰り返しのムーブメントは終着点をまだ知らない。手法は繰り返され、皮相的に流動していく。

 音楽に興味のない、とある年配の方がいっていた

 「アイドルなんて、服装と曲調が少し変わるくらいで、時代なんて関係ないわよ」

 というコメントが思い出されてきた。どうやら今のところは、このコメントの方にぼくは賛同する。
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by fastska | 2005-08-09 09:43 | 音楽オンガクおんがく
フェラチオで世界を変える
a0022864_237432.gif 以前、あるギタリストがこう言っていた。

 「俺はこのギターを女性のように扱ってきた。ここがおっぱいで、ここが何々。そう言う風にいとおしく弾いているんだ」と。

 ここに特別な違和感は感じなかったものの、これはかなりの倒錯なのである。性への倒錯なのである。

 性、というものが人間に対する極限までの同一願望だとしたら、それを機械に求めるという倒錯。

 同じようなことをサックスについて書かれた文章も読んで非常に衝撃を受けたことがある。

 サックスは、常にゲイのオマージュとしてイメージされることがある、という。男が男根を手に抱え、それをフェラチオして奏でる怪しくキワドイ、そして最高の音楽。

 ここには明らかに倒錯とともに、その異常さからエキセントリックな誘惑をかもし出すには十分な「何か」があった。

 「おい、聞いてみろよ。あの黒人のフェラチオから聞こえてくる、喘ぎ声にも似たあの叫びを。同じ喘ぎ声が繰り返されることなく、快楽の絶頂で果てるかと思えば、またしつこく相手の精力を奪わんかのような絶倫さを。そして、その終わった後の、どこか虚しい、タバコの煙のようにうっすらと感じを残す妖艶さを」

 性への屈折したイメージが、いやまさにその屈折ゆえに誕生したイメージが、アウトローというカタチを取りながら世界を魅了していく道程。

 ぼくらは、そう、あの長髪でデタラメなロックスターに魅了されていた。近寄りがたく、常にクスリや酒でボロボロにされながら自由を訴えていくあのロックスターに魅了されていた。どうせ世界なんて変わらないさ、と思いながらもその噴出すものを隠しきれないその素直さに、そのセクシーさに、その性に魅了されていた。

 ぼくらは、そう、あの旋律のない中で、次々と繰り広げられる鍵盤とサックスから出されるデタラメな、だけれど危なっかしい世界に酔っていたんだ。フリージャズという、生硬な理論を振りかざし、それに必死に分からないのをよそに大人に一歩でも近づくために知ったかぶりしていた、ぼくらの子供時代があるんだ。そこには何もかもがあったんだ。

 ぼくらはその音楽に未知世界としての性を重ねて育ってきたのではなかっただろうか。

 ぼくらの人生は既にそこで全てを学んだのではなかっただろうか。
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by fastska | 2005-07-18 23:24 | 音楽オンガクおんがく